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(200) サマータイム・ブルース。 最後のドア。 2002-08-31

金が無いのは若さの特権であると言いつつも、よくあれだけ遊んだモノだと不思議でならない。
そしてずいぶん昔の事なのにその時の背景を含め鮮明に思い出せるのも不思議である。
まだまだ赤面ストーリーは山ほどあるのだがこれ以上、恥をさらすのは止めておこう。

湘南海岸には、今住んでいる横浜から深夜にロードスタ−をオープンにして一人で走りに行く事がある。
ビーチ・ボーイズの"♪アイ・ゲット・アラウンド”を流せば最高だ。

きっと、誰にでもある”サマータイム・ブルース”。
結果とは必然であり偶然の出会いなどはあり得ず、何かしらの法則に導かれてめぐり逢う。
私の場合はいいかげんな私を修正した、最高の妻に出逢うためのものであったのかもしれない。




(199) サマータイム・ブルース。 風景はグレー色に変わった。 2002-08-31

海岸の海の家でバンドのアルバイトをしていた。いつも一番前で踊っていた女の子のグループの一人。
コパトーン色に焼けた身体に化粧は皆無で真っ赤な口紅のみの当時言われていた、まさしく”湘南ガール”である。

彼女の年上かつ超積極的。で私はホレた。その証拠に夏が終わっても続いたのである。

が、しかし彼女の元カレからのリターン・コールで私は激的に敗北し、フラれたのであった。
宣告された時、確かに廻りの風景はモノトーンと化し、色が消えたのをハッキリ憶えている。

人間は何度か大失恋を経験しなくては一人前とは言えない、などと聞くがこれだけは一度で良いだろう。
今でこそ笑って話せるが当時「♪想い出の渚」が大ヒット中で心のキズに響いたモノだ。
しかもその”ワイルド・ワンズ”のメンバーの中に、あの葉山マリーナでの対抗バンドのメンバーがいたと言うおまけ付きだった。




(198) サマータイム・ブルース。 パシフィック・ホテル。 2002-08-31

加山雄三のデッカいクルーザー「光進丸」は江ノ島ヨットハーバーに停泊していた。
その彼が経営していた"茅ヶ崎パシフィック・ホテル"のアタマでっかちな建物は、R134のほぼ中央にあり
伊豆方面からの帰り道、距離的に適度な目印となっていた。

彼女にせがまれ海側の部屋に泊まった晩は月に照らされた海しか見えなかった。

事情により閉鎖、撤去と風景が変化していったがあれから何年経つのだろうか。サザンが切なく歌う歌詞は心に痛い。




(197) サマータイム・ブルース。 再会。 2002-08-30

七里ガ浜でも時には意外に大きな波が来る時があり、さしずめ「スモール・ウエンズデイ」か。
連絡もしないのにサーフ仲間が自然と集まる。
しかし、友人に誘われて初めて行った伊豆の白浜海岸は超ゴキゲンだった。
湘南の海とは違い、まさしく白い砂浜に手頃な波が打ち寄せる。

当時、私のボードは少し前にまたリバイバルした元祖ロング・ボード。正座してパドリングするスタイル。
その白浜海岸は、かなり沖まで漕ぎ出しても海底が透き通って見える程の綺麗さで、大いに感激したものだ。

現地調達した彼女はスチュアーデスのタマゴと言っていたが
その美しい海岸の雰囲気の中で、いいかげんな私を若干、本気にさせた。

数年後、都内の細い道路で対面渋滞の中で彼女の運転するクルマと偶然にも相互に渋滞停車した。
1メートルほどの距離を挟み、お互いに驚いたが声は掛けなかった。それぞれ隣に座っている人がいたのだ。

偶然過ぎる再会は十数秒で終了し、お互い反対方向へと走り去った。




(196) サマータイム・ブルース。 言葉が不要の会話。 2002-08-29

環八、世田谷入り口から左折して第三京浜に入ると、たまらない開放感に、当時のクルマ・スカG(初代)のアクセルを力まかせに踏み込む。
するとこれまた気合の入ったベレGが追い越して行った。

私はなおかつ、気合を入れ直しスリップに入るがごとく加速し追い抜きに成功したが、彼も執拗に食いついてくる。


全長距離が、15kmそこそこの第三京浜では、ほぼ全速力で走ればすぐに三ツ沢の料金所だ。
なんとかベレGの前に並べた私は彼に敬意を表し、ベレGの料金も支払い、そのままゲートを出た。
その先の小さな渋滞で横に並んだ彼は、開いていた私のウインドウにチョコレートを投げ込んだ。

今ならケンカにでもなりそうな走り方でも、当時は少しは"イキ"だったのだ。




(195) サマータイム・ブルース。 駐車場 2002-08-29

海岸沿いのルート134及び、湘南あたりの道路は夏以外でも週末は混雑する。
当然に有料駐車場も空きスペースを見つけるのも大変なのだが、私が若い頃はその殆どの駐車場が無料だったものだ。
太陽の下で由比ガ浜や七里ガ浜などのそれは、仲間との絶好のたまり場だった。

しかも夜ともなれば現在の様に水銀灯が明るく照らす状況ではなく適度(?)な暗さがあり、
波の音と潮の香りをBGMに、恋人達にはグッド・スポットとなる。
地元人間の私としても、これらの場所は多いに利用させて頂いた。

ある晩、葉山の森戸海岸わきの駐車場からボチボチ帰ろうと車を動かそうとしたら
後輪がモノの見事にエア抜きされていた。
それにも気付かず彼女と"お話し"ていた私はアホなおバカだった。




(194) サマータイム・ブルース。 イカテン 2002-08-29

と言えばだいぶ前に放映されていたアマチュアバンドのコンテストのTV番組なのだが
それよりもっともっと大昔に、似た番組があったのだ。その名も「勝ち抜きエレキ合戦」。
う〜む、これまた何と言うネーミングであろうか。
鈴木やすしの司会。内容はチャンピオン・バンドに毎週4っつのエレキバンドが挑戦するのだ。

私らのバンドもそれに応募したのだが、当時は若者の殆どがバンドをやっており、
予選に勝つだけでも6〜70ぐらいの中から選ばれなくてはならない。



数日後、フジテレビから予選通過と収録の知らせを受けた時は狂喜乱舞状態となったものだ。
高校ををサボり、収録の当日は今でもよく憶えている。
レギュラーバンドは力也がいたシャープ・ホークスで本物のサウンドは圧巻だった。

私らのバンドは残念ながら第1週で負けたが、その週のチャンピオン・バンドは強力で最後まで勝ちき、後にプロとしてデビュー。
その「ザ・サベージ」はその後、ボーカルバンドに変身し、いくつかのヒットを出す。
メンバーの一人だった寺尾聡を画面で見る度に、今でもあの時を思い出す。




(193) サマータイム・ブルース。 エレキ 2002-08-28

電気ではなくギターの名称なのだが今考えると、面白いネーミングである。
ソレをやるのは不良だ、などと当時のオトナ達が言っていたが、ベンチャーズのコピーバンドがあちこちに誕生した。

週末にはパーティーなるイベントが開催され、バンド同士でもテクが競われた。
私らのバンドも演奏できるだけで楽しく、ただ同然でアチコチに出たモノである。


印象的なのが葉山マリーナのプールサイドで行われた時は、複数のバンドとの競演になった。
他のバンドがインストルメントのみだったのに対し
私らのバンドは当時としては珍しく、ボーカルを含めた演奏でレイ・チャールスの"What'd I say"では大いに盛り上がり(過ぎて)
果ては興奮したギャラリーに、私がギターごとプールに放り込まれた事があった。懐かしく楽しい記憶である。




(192) サマータイム・ブルース。 口から出まかせ 2002-08-26

高校生の頃はひとつ年上でも"先輩"として言葉遣いに敬語を使うなど、注意せねばならなかったのだが
高校に入学直後、一年生の私が通学電車の中で声を掛けてお友達になった女の子。話を聞けば実は高校三年だった。
「見かけない顔ね」と言われ私は多少、あわてたてたが「転校してきたんだよん」と私も三年生だと言って話しを合わせた。

しかし数日後、彼女が私の仲間の姉と友達だったらしく
「ソイツはアイツに違いない。」とあっさりバレてしまい、仲間のお姉さんからシボられた私だった。




(191) サマータイム・ブルース。 赤面ストーリーの蓄積 2002-08-25

夏の終わりというのは淋しいものである。
逗子育ちの私は若い頃、当然テリトリーは海が中心であった。もちろん東京あたりから繰出してくる女の子達には大歓迎。
盛夏の私は忙しい。仲間とクルマで葉山の一色海岸あたりをベースに江ノ島あたりまで流し、美人を捜しに行く。

私は高校の時に、18才の誕生日(6月)に合わせて自動車学校へ通ったのだが、その教習所の受付に"超チャーミングな"女の子がいた。
仲間が声をかけてもうまく行かったのだが、意を決した私の誘いに、意外にもOKをもらった。

それ以来私の哲学?に”オトコは顔ではないのだ”という言葉が加わり、
今になって振り返ると赤面せずにはいられないストーリーが蓄積されるのだ。



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